Saturday, January 20, 2018

音楽とは

人生を何年もやってくると、そして大人になると、精神を壊してしまうくらい追い詰められてしまうことはよくある。それは人間の実存そのものがポイズンだ、ということもあるし(坂口安吾的な)その中で現実とどうやって折り合いをつけていくかというのはとっても大切なことである。

ある人はそのまんまその毒に当てられて自ら命を絶つこともあるし、ある人はそのまんま人を騙したり傷つける人になるし、ある人はモルヒネや薬物を(それは実際のものでなかったとしても)打つことによってなんとかしようとする。ある人は完全に忘れようとする。

鈍感であればそれは大した負荷にはならない。だがしかし、ある程度気づいてしまうと、絶望の深淵が待っている。それは闇であったりとかする。

多くのミュージシャンが、音楽は逃げ場だったというような自分語りをする。それは往々にして正解である。 僕はそっちに共感する。

音楽は音楽という単体のジャンルではない。音楽というか音は、そのまんま他のものと地続きに(こういう言葉を使うと猫も杓子も劣化した意味合いで使い出すので嫌なんだけど、)なっている。

例えば、美術とか映像と音楽は地続きになっている。モネとドビュッシーは地続きになっている。それは確かに繋がっている。


音楽と映像は相互に連関していて、その奥にある世界観とか(というか世界自体)を表すための別々の手段にすぎない。また、音と映像と思想や宗教も連関している。

例えば、ノイズ音楽を直接聴いたりしたことがあれば分かると思うが、ノイズは「無機物」や「悪魔」を描いている、ということがしっかりと伝わる。目の前に、大きな悪魔の顔が描かれているのを把握できる。

ニューエイジなどでは、風景の広がり、それは野原から、ただの幾何的な空間から、宇宙とか銀河系まで、表現したいものが明確に伝わる。

ニューエイジに近いのはグレゴリオ聖歌とかチベットの宗教音楽とかコーランの朗読、が挙げられる。

それぞれがそれぞれの空間や、場合によっては過去をそのまんま温存していて、それと干渉することができる。

それぞれの音楽は、音という媒体を通して他の何かと干渉している。それ自体が、音楽の持つ救いでもあるのかもしれない。


僕個人にとっては、(そして多くの似たような人にとっては)、自分の音楽を消費するというのは自分の自我をそれ自体を通して確認しており、それはとても神聖な行為に近い。
 
 よく世間では「ナルシスト」「自己顕示欲」と揶揄されるような自己の存在確認行為も、その対偶をとって仕舞えば、自分の価値を認識できず、自殺というところまで行ってしまう。

自分の価値を自分で認識した状態を保つということは生命線である。自分を鏡で認識した時に眉をひそめてしまう状態は、やはりどこかに不健康さや傷が存在する。

 音楽は、(特に作る側にとっては)、それ自体が自分の安全な世界、自分の空間、自分というエリアの再認識、自己肯定といったいろんな浄化作用を刹那的にも得る場所としてとても重要である。

(社会にさらされていると、いろんな場面で「お前はこの程度の価値だ」ということを強制的に上書きされる局面によくであう。時にそれは否定であったり、裁きであったりするわけであるが、そう言った洗脳?を解いて再び自分自身である状態にフォーマットする時にも、音楽は大きな力を持つ)

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