Tuesday, March 28, 2017

【必見!】ひろゆき、キリスト教牧師を超絶論破!!!「僕のことを誰も覚えていなくて結構です」





Qちゃんがあまりにも言葉足らずなので簡単に補足しておく。


宗教っていうのは「定義」と「ストーリー」を一つ一つ「信じる」ことが前提となる。これを噛み砕いたのがカントの定言命法とか、もう少し遡るとデモクリトスとかのアトムに成るんだけど、要は、


「これ以上は論駁しえない絶対の定義、格律」


をお互いに共有して初めてそれが成り立つのが宗教だ。(だからそもそも?マークを投げても意味がない)


だからそもそもその価値観の外から外れたところでいくらつついても意味がないし、それで論駁したことにはならない。


土手に咲いているコスモスをコンクリートの上に寝かせて水をかけても意味がない。


 キリスト教は予定説(Presbyterian)みたいなところも通ってきたので、選ばれる人と選ばれない人がいる、みたいな価値観も当然ある。

一つ言えることは、曲がりなりにも欧米の文明の中核のモーターをなしてきたお約束事(プロトコル)がキリスト教なので、そこに論理的一貫性とか完璧性からの偏差を探してあざ笑っても大して生産的なこととは思えない。

 ひろゆきは頭がいい人だと思ってたけど、こと宗教についてはノーマークなんだなという印象を受けた

宗教やってる人は自分たちの世界観にどっぷり浸って 外の価値観と比較して自分の座標を知ることができないことが多いので、そういう人たちには、そういう人たち用の話し方をしたほうが本当は本質をもっと引っ張れる

宗教に「論破」は意味がない

空手の試合に木刀持ち込むやつはいない。

そういうこと

いるかいらないか、 じゃなくて僕らの言語にも文化にも、文明にも科学にも、歴史にもものすごく食い込んでいる土台みたいなものが宗教だということ。それは、形をちょっと変えれば政治イデオロギーだったりするかもしれないし、民族主義とかナショナリズムとか、現象学とかアカデミズムとか労働三権とか人権意識とか国際法とか、人間が人間やるうえで当たり前のように享受しているいろんなものが宗教と関連しているってことは忘れちゃいけない。

でなければ、法律や倫理は成立しない。

 日本の法律や倫理は一見宗教と独立しているように見える「だけ」で、それは吉野家の牛丼がどうやって食卓に並ぶか普段意識しないのと同じだ。例えば明日いきなり結婚可能年齢を引き下げて10歳にした場合、僕含め多くの人が顔をしかめてブチ切れるだろうが、それを上の動画みたいに反論で言いくるめて論破しよう、というのはできなくはないことだ(カントの二律背反dichotomy)

政治的意思決定や人の行為への許可、制裁など諸々が 大衆の合意や価値観でできており、すべてがそれ以上掘れないような地点が「定言命法」であり、宗教の名残りだ (殺すなかれ、とか)

信じる必要はないが、 敬意をもたないってのは賢くないと思う

ひろゆき

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